朝:期待しないと決めた自分
その朝、私はいつも通りに弁当作りと朝食の用意をしていた。
夫は「休みがない」とため息をついたけれど、私は反応しなかった。
誰かの感情の調整役を降りると決めたからだ。
少し遅れて起きてきた夫は、私のそばに来て「大丈夫?」と聞いた。
私は「大丈夫」と答えた。
本当に大丈夫だったかどうかは分からないけれど、そう答えることにした。
胸が少しドキドキしていた。
それでも私は「これでいい」と思った。
無理に気遣わなくていい、受け止めなくていい、と自分に言い聞かせるように。
夫は弁当と水筒を鞄に入れた。
「ありがとう」という言葉はなかった。
以前なら引っかかっていたかもしれないけれど、その朝は淡々と朝食を食べ続けた。
感情の調整役を降りたつもりだった朝。静かに過ごしているつもりだったけれど、この頃の私は、思っていたより疲れていたのかもしれない。
身体に出てきた疲れ
日中は、いつも通りの家事をした。
洗濯機を回し、ヨガや体操をして、洗濯物を干した。
風呂掃除をしていると、頭痛がしてきた。
白湯を飲んで一息つき、今日は無理をしない方がいいなと思った。
天気が良かったから、布団を干そうか一瞬迷った。
でも、まだ頭が重くて、そのままやめた。
明日は雨らしい。
そんな日もあると思うことにした。
夕方、息子が「一緒に足湯をしながらゲームしたい」と言った。
用意をして、並んでゲームを始めた。
穏やかな時間だった。
夕食の準備の時間になり、途中でゲームを切り上げた。
息子はまだ遊びたそうだった。
料理を早めに切り上げて、もう少し一緒にいればよかったかな、と考えながら料理をしたら、背中が痛くなった。
焦ったり、迷ったりしながら動くと、体がすぐに反応する。
夕食を作り終えたころには、息子はひとりでゲームに切り替えていた。
私は白湯を飲んで、椅子に座って一息ついた。
期待しないと決めたはずなのに、
その日は、思っていた以上に体が疲れていた。
今、振り返って思うこと
今振り返ると、あの日の疲れは、特別な出来事があったからではなかったと思う。
「期待しない」と決めて行動できていたし、感情をぶつけることもなかった。
それでも、体はちゃんと疲れていた。
たぶん私は、感情の調整役を降りることと、何も感じなくなることを、どこかで混同していたのだと思う。
反応しないようにしても、感じていないわけではない。
気づかないふりをして、静かに受け取っていた疲れが、あとから体に出てきたのかもしれない。
「淡々とやれているから大丈夫」
そう思っているときほど、体は正直だ。
この日は、家事も、子どもとの時間も、最低限は回っていた。
それでも、余裕はほとんどなかった。
頑張りすぎている自覚がないまま、少しずつ力を使っていたのだと思う。
今なら、こう思う。
期待しないと決めても、疲れる日はある。
それは失敗というより、調整の途中なのかもしれない。
まとめ
「期待しない」と決めても、疲れてしまう日がある。
それは、まだ弱いからでも、やり方が間違っているからでもない。
感情の調整役を降りる選択は、心には楽でも、体には時間がかかることもある。
淡々と過ごせているように見える日ほど、静かに疲れがたまっていることもある。
もし、同じように
「うまくやれているはずなのに、なぜか疲れている」
と感じる日があったら、
それはちゃんと自分を守ろうとしている途中なのだと思う。
そんな日は、もう十分やったと思っていい。
何も足さなくていいし、少し休んでいい。
期待しない選択は、少しずつ体にも馴染んでいく気がする。
疲れながらでも、その選択は確かに前に進んでいる。

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